会社を次の代に残そうと動き始めたオーナーが、最初に取りかかるのはたいてい引き継ぎ書です。取引先の一覧、価格の決め方、年間の段取り、金融機関の担当者。書き出してみると、思ったより書けます。

それでも、渡したあとに会社は止まります。 止まるのは引き継ぎ書に書いていないことではなく、書いたつもりで渡っていないことです。

社長の頭の中にある仕事は、2種類あります。紙にすれば渡るものと、紙にしても渡らないもの。承継の準備で時間がかかるのは後者だけです。この記事では、2つをどう見分け、渡っていないものをどう測り、何から手をつけるかを書きます。

属人化は、ずさんな経営の結果ではありません

先にはっきり書いておきます。社長に仕事が集まっているのは、長く続いた中小企業では合理的な形でした。

社長が取引先の事情も、原価も、社員の得手不得手も全部知っていれば、会議は要りません。稟議書も要りません。「あの件、こうしておいて」で済みます。判断に必要な情報が一人の中に揃っているとき、意思決定は最速になります。 大企業が何週間かける判断を、その日のうちに出せる。これが中小企業の強みで、実際にその速さで競争に残ってきた会社が多いのです。

つまり属人化は、勝ち方そのものでした。

だからこそ、「仕組み化しましょう」という助言はオーナーの手が止まります。言われていることが、いまの経営を遅くする作業に聞こえるからです。その感覚は正しい。短期的には確かに遅くなります。

渡す相手が現れた瞬間に、この形の評価が変わるだけです。

渡す相手は「社長が抜けたあとの会社」を見ています

買い手でも、外から来る後継者でも、親族の後継者でも、見ているのは同じです。あなたが退いたあとに、この会社がいくら稼ぎ、どれだけ回るのか。

そして、社長の頭の中にある仕事が多いと判断されると、相手は低いほうに見積もります。これは値引き交渉ではありません。相手にとっては合理的な予防です。説明がなければ、「社長が抜けたら落ちる」と仮定して考えるしかありません。

ここは決算書と同じ構造です。会社側が説明を用意していない部分は、相手が自分で推測し、保守的な数字に振れます。決算書の側の話はオーナー会社の決算書は、税金を抑えるために作られているに書きました。

実務上もう1つ出てくるのが、社長に一定期間残ってもらう条件です。

※キーマン条項とは: 会社を譲ったあとも、一定期間は社長(または主要な役員)が会社に残って引き継ぎに当たることを、契約で約束する取り決めのことです。M&Aでは珍しいものではありません。ただし残る期間が長く求められるほど、「この会社は社長がいないと回らない」と見られているということでもあります。

退く時期を自分で決めたいのであれば、頭の中にある仕事を減らしておくほうが、選べる幅が広がります。

紙で渡るものと、紙では渡らないもの

ここが本題です。社長の属人業務を、2つに分けます。

【A】手続きとして渡せるもの

誰が何をいつやるか、価格表、取引の条件、申請の期限、年間の行事、取引先ごとの担当者名と連絡先、金融機関の返済予定。これは書けば渡ります。 書くのは手間ですが、難しくはありません。

【B】判断の基準として渡すしかないもの

  • この取引先は、どこまでなら値引きしてよいか。なぜそこが限界なのか
  • この仕事は、どの職人に振るべきか。なぜその人なのか
  • 急な依頼を受けるべきか、断るべきか。断ってよい相手と、断ってはいけない相手の違いは何か
  • 銀行に相談するとき、何を先に言い、何を後に言うか
  • 支払いが遅れている相手に、いつ催促し、いつ待つか

これは書いても渡りません。 書けば「原則」になりますが、実際の場面はいつも原則から少しずれています。ずれたときにどう判断するかが本体で、そこが渡っていなければ、後継者は毎回あなたに聞きに来ます。

多くの会社で起きているのは、【A】を立派に作って「渡した」と思い、止まるのは【B】だったという事態です。

「聞かれて答える」では渡りません

【B】を渡す方法は、実質ひとつです。あなたが決める場に後継者を同席させ、決めたあとに「なぜそう決めたか」を言葉にすること。

順番が大事です。多くの会社では逆になっています。後継者が案件を持ってきて相談し、社長が答える。これを何年続けても、後継者は社長に聞く習慣を身につけるだけです。判断の基準は手に入りません。

同席の形にすると、後継者は「自分ならこう決める」を先に頭の中で作ります。そのうえで社長の判断を聞くので、差がどこにあるかが分かります。差の理由を聞けば、基準が少しずつ移ります。

これには時間がかかります。半年では終わりません。だから承継の準備は、相手を決めてから始めるものではなく、相手を探す前から始まっているものです。 時期の逆算については後継者探しのベストなタイミングとは?外部招聘を成功に導く「5年逆算」の法則で扱っています。

何が渡っていないかを測る、唯一の方法

自分の頭の中に何があるかは、自分では数えられません。測り方は一つだけです。

1週間、連絡を取らずに会社を離れてください。

3日では足りません。3日分の判断は、社員が溜めておけます。1週間空けると溜めきれなくなり、止まるものと、あなたに連絡が来る用件が表に出ます。

戻ったら、次の2つを記録します。

  1. 止まっていたこと — 決まらなかった案件、動かなかった発注、返事を保留した相手
  2. 誰が、何のために連絡してきたか — 社員か、取引先か、金融機関か。何を聞かれたか

これがあなたの属人業務の一覧です。頭から絞り出した一覧より正確です。そして記録した各項目を【A】か【B】に分けます。【A】はその週のうちに紙にできます。【B】が、これから数年かける仕事です。

オーナーが手をつける順番

  1. 1週間離れて、止まったことと連絡の内容を記録する。 これを承継の出発点にします
  2. 【A】を紙にする。 一覧・価格・条件・期限・連絡先。完璧を目指さず、まず書きます
  3. 【B】を書き出す。 渡らないと分かっていても、項目名だけは書きます。何を渡す必要があるかを自分が把握するためです
  4. 【B】のうち、人の関係に紐づくものを分ける。 金融機関、主要取引先、腕のいい職人。これは基準の話ではなく紹介の順番の話になります。誰に、いつ、どういう形で引き合わせるかを決めます
  5. 同席の場を作る。 決める会議に後継者を入れ、決めたあとに理由を言う。これを習慣にします
  6. 渡しきれない部分が残ることを、相手に正直に伝える。 隠すと、相手は全部を疑います。「ここは残る、だから一定期間は自分が関わる」と言えるほうが、話は早く進みます

社長の席にどこまでの権限を持たせるかという別の論点については社長の後継者は、選ぶ前に「引き受けられる席」にするに書きました。権限の設計と、判断の引き継ぎは別の仕事です。両方必要になります。

まとめ

  • 社長に仕事が集まっているのは、情報が一人に揃っていると判断が最速になるからで、間違った経営ではありません
  • 渡す相手は「社長が抜けたあとの会社」を見ます。説明がない部分は、相手が保守的に見積もります
  • 社長の属人業務は、手続き(紙で渡る)と判断の基準(紙では渡らない)に分かれます
  • 引き継ぎ書を作って止まるのは、ほぼ後者です
  • 判断の基準は、相談を受けて答えるのではなく、決める場に同席させて理由を言うことでしか渡りません
  • 何が渡っていないかは、1週間会社を離れれば分かります
  • 時間がかかる仕事なので、相手を決める前から始めておくほうが、退く時期を自分で選べます

会社を残すための選択肢として、外から経営者を迎える道を検討されている場合は、後継者をお探しの方へをご覧ください。外から来る後継者は、社内で育った人よりも【B】が手元にない状態で始まります。その分、同席と紹介の設計が効きます。